鬼滅の刃から見える、組織マネージメントの大事さ 鬼殺隊と鬼の「4つの差」を考察
2023年2月にワールドツアー『鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』が上映開始、さらにTVアニメ「刀鍛冶の里編」も4月より放送スタートが決定しました。
「刀鍛冶の里編」では、謎多き刀鍛冶・鋼鐵塚氏をはじめとする刀鍛冶の人々の暮らしや仕事ぶりを見ることができます。鬼と直接戦わなくても彼らも鬼殺隊を支える大切な人物です。
TSUNAGU番外編として、組織マネージメントの側面で、そんな鬼殺隊と無惨をトップとする鬼達を比較し、その「差」について考えてみます。
リーダーとしての「差」
炭治郎が入隊した時の鬼殺隊のトップは産屋敷耀哉(うぶやしきかがや)です。病に侵され、自らは刃を持って戦うことはできないものの、超個性的な柱たちからは絶対的な信頼と尊敬を集めるカリスマ性があります。耀哉は隊士たちを「私の子供たち」と呼び、亡くなった隊士たちの名前を呼びながら墓参りをしているシーンは、隊士たちへの深い思いを感じられるシーンです。 一方、鬼側は始祖である鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)を頂点に、彼が生み出した鬼すべて(珠世、禰豆子を除く)がその支配下にあります。鬼たちには、「思考を読み取られ」「位置を把握され」「無惨さまの名前を出すと殺される」という、無惨の呪いがかけられているため、勝手な事は出来ないし、いつ命を奪われるか分からない、とても不安定で弱い立場です。 下弦の伍(かげんのご)の累(るい)が鬼殺隊に倒された後に開かれた、いわゆる「無惨様開催のパワハラ会議」では、下弦の鬼たちが理不尽に責め殺されました。無惨にとっては部下は、ただの駒にすぎず愛着を感じるような相手ではありません。そのため、自らの手でみすみす戦力を削るという愚行を平気で犯すのです。 産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨。リーダーに求められるのは、結果を出すチームをつくりあげるマネジメント能力だと言われます。組織をひとつにまとめるものが人望なのか、恐怖なのかによる「差」が、結果として組織の「差」を生み出したと言えるでしょう。
組織としての「差」
鬼殺隊は産屋敷家の当主を頂点に、戦力の中心である柱、柱の下で腕を磨く継子(つぐこ)、一般隊士、戦闘後の処理などをする隠(かくし)、入隊希望者を育てる育手、鬼を狩るための日輪刀(にちりんとう)をつくる刀鍛冶、そして後方支援をする「藤の花の家紋の家」などで成る組織です。 一方、鬼側はトップである無惨の下に「十二鬼月」と呼ばれる、抜きんでた実力を誇る鬼たちがおり、そのなかでも強さによって「上弦の鬼」「下弦の鬼」に分かれています。鬼のなかには自らの目的を持っているものもいますが、組織としては、「日光を浴びても死なない完全な不老不死の体になる」という無惨の願いをかなえるための道具にすぎません。 炎柱・煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は死を目前に炭治郎たちに「柱なら後輩の盾となるのは当然だ」「若い芽は摘ませない」と、語りました。戦いの場においても、柱と一般隊士の共闘は珍しくありません。先輩はその戦いぶりを後輩に見せ、後輩はその技術と「想い」を受け継いで成長し、鬼殺隊という組織が続いているのです。 しかし鬼は、部下の鬼たちが連携して自分に歯向かうことを恐れた無惨が、群れると共食いするようにDNA?設計されています。そのため鬼同士が協力して戦うというシーンは非常に限られており、戦術などについての継承は全くなされていません。ましてや鬼の側の目的は無惨の個人的な欲求であり、継承すべき「想い」もありません……。この「想い」があるかないかが組織としての強さの「差」を生んだと言えるでしょう。
志の「差」
すべての鬼を倒して平和な世の中をつくることが鬼殺隊の目的であり、そのためには命を投げ出す覚悟も鬼殺隊のメンバー達にはあります。それは柱も当主も同じです。志を同じくする者の集まりだからこそ強い絆で結ばれています。
先日のFIFA WC QATAR 2022のサッカー日本代表の森保監督が求めた自己犠牲と同じですね! また、ラグビーのフォワードを中心に全ての選手が「相手と体をぶつけ合い、密集でもみくちゃになりながらも、一瞬でも早く立ち上がり、懸命にボールをつなぎ、味方をサポートする」というプレーを連続させることが彼らの本質であり、その姿勢は犠牲そのもの。特にラグビー日本代表は、相手国の選手より体が小さいだけに、自己犠牲の姿が観ている方々の心を打ちやすく、観客自身も誇りを感じられるところなのではないでしょうか。
そもそも「犠牲」というフレーズには、「ある目的のために大切なものを捧げる」という意味があり、かつて日本人の美徳とされた時代もありました。時代は流れ、個人の尊重が叫ばれる近年に「犠牲」の姿が支持されたのは、それが古きよき日本人の気質であるからなのかもしれません。
一方、鬼の目的は無惨が日光を克服し不老不死の完全体になることで、とても個人的な欲望といえます。無惨が鬼をつくり続けているのは、もし太陽を克服する鬼が生まれれば、それを取り込もうと思っているからでしょうし、そのような能力がなくても青い彼岸花を探す人員確保のためなのでしょう。だから部下に対して真の意味での愛情はないし、集団としての志と呼べるものもありません。熾烈な戦いのなかで、最後のあと一歩が踏ん張れるのは、この志の「差」ではないかと思います。
計画性の「差」
産屋敷家の邸宅は鬼側に知られない場所に秘匿されていますし、刀鍛冶の里もまた隠の案内なしでは辿り着けないよう秘匿されています。隊士たちは修練を重ね、刀鍛冶たちは技術を子や孫に伝え、いつか来る決戦の日のために緊張感をもって準備をしていたのでしょう。
この緻密な長期計画が無惨には欠けているものです。 たとえば医師や薬師を狙って鬼化させる、あるいは鬼化させないにしても協力させて不死の薬を作らせたりすることは可能でしょうし、柱をおびき出して上弦の鬼を当て、ひとりずつ倒していって鬼殺隊を丸裸にした後に自分が活動しやすいように鬼殺隊をせん滅するなど、いくらでもやりようはあったはずです。長年に渡り人間を圧倒してきた鬼の能力への確固たる自信が計画性を奪ったのかもしれません。 だから、浅草で炭治郎たちを中途半端な力の鬼(朱紗丸、矢琶羽)に襲わせて返り討ちにあったり、怒りにまかせて下弦の鬼たちを「パワハラ会議」で殺して自ら戦力ダウンしたりしたのでしょう。この計画性のなさが鬼殺隊と無惨の「差」であり、「遊郭編」の最後に、血を吐きながら耀哉が「これは“兆し”だ。運命が大きく変わり始める」と言ったように、今後、「刀鍛冶の里編」からどんな変化が起こっていくか楽しみなところです。